皆さんご無沙汰しております。
私がこの会社に勤め出してちょうど1年が経ちました。
光陰矢の如しで、あっという間に日々が過ぎ去ってい行きます。
昨年初めて作成したブログのテーマは梅の花と能「東北」について絡めながら、自らの心情を吐露したものでした。 https://www.mirai-bld.co.jp/staff-blog/blog/2024/02/06/%e6%98%a5%e3%81%ae%e5%a4%9c%e3%81%ae%e9%97%87%e3%81%af%e3%81%82%e3%82%84%e3%81%aa%e3%81%97%e6%a2%85%e3%81%ae%e8%8a%b1%e8%89%b2%e3%81%93%e3%81%9d%e8%a6%8b%e3%81%88%e3%81%ad%e3%81%8b%e3%82%84%e3%81%af/ 参照
話題の中心は、古今和歌集を主軸にしての関連性で書きましたが、今回はもう一つ引用テーマとして据え置かれている「法華経」を絡めて見たいと思います。
法華経は一言で申し上げると誰でも平等に苦しみから解放されると力説した仏教経典です。
「東北」で引用されているのは法華経 譬喩品(ひゆほん)の三車火宅というたとえ話です。
概要を記載いたしますとある大富豪の家に3人の子供が暮らしており、ある日その家が火事になりました。
大富豪は子供たちに家から出るように外から呼びかけますが、子供たちは声に気づかず、一向に外に出ません。
そこで、富豪は、3人がかねてより欲しがっていたもの(長男は羊の車、次男は鹿の車、三男は牛の車)をそれぞれ与えるから出ておいでと諭します。
それを聞いた3人の子供は、門の外に出て難を逃れました。
最後に大富豪は3人の子供に大きな白い牛の車を与えたのでした。
上記の話は例え話で、専門用語は使わずにかいつまんで申し上げると、大富豪はお釈迦様で火事になった家とは煩悩が絶えないこの世界(娑婆)のことです。
3人の子供は私たちのことを指すのですが、3人にはそれぞれ強烈な差別意識が存在しています。
背景として、法華経が成立した時代は、釈迦が入滅(亡くなる)してから時が経ち、その教えや解釈をめぐって対立と分断が起きていました。
長男(最も古い釈迦の直径弟子グループ)は自身らを正統後継者と豪語し、他の2人を差別していました。
それに対し次男(釈迦の教えを間接的に聞き継承したグループ)は長男を傲慢な人(グループ)と蔑み、三男を出来損ないと嘲っていました。
三男(釈迦の教えから発展させ、既存のやり方では救済できない人達を救うことに活動していたグループ)は上二人を権威主義的なグループと差別していました。
それぞれが各々差別心を抱いており、「みんな正しく、みんな間違っている」そんな状況でした。
それぞれの正しさで他を塗りつぶせば、分断が加速し、憎悪がひしめき合う状況だったのです。
法華経はその状況から脱却するための教えのエッセンスを例え話に含めたのです。
お釈迦様がそれぞれ求めるもの(三種類の車)を与え、最後に真理の教えを全員に「平等」に説いたのです。
「東北」においては早春の寒さに耐え咲き誇る梅の花心に安らかな香りをしたため、そののどかな心が法華経と和歌を結び付けていきます。
和歌によって抒情的に仏教が伝える悟りへとリンクしていく有様を幽玄みを帯びた菩薩になった和泉式部が私たちに指し示すのです。
門の外法の車の音きけば。我も火宅を出でにけるかなと。かやうによみし事。今の折から思ひ出でられて候ふぞや。 (門の外で法華経を読む声を聞いていると、私もその車に乗って、燃え盛る家のように不安や迷いに満ちたこの世から、出て行ける気がします。そのように詠んだこと今、思い出しましたよ)
法華経が力説する「平等の悟り」の「等しさ」とは一体何処にあるのでしょうか。
論理的に説明するのが現実として難しいものがあります。
文明が発達した現代社会においても、格差が絶えず、分断の壁は厚く、人々の間の溝は深まっているように感じます。
我々の「等しさ」の所以と根源を日々の中から問い直す必要があるのかもしれません。
少し風呂敷を広げすぎたので、戻しますと、1年が過ぎ入居者様含め、お客様に対して「等しさ」(イーブンやフェアと換言するのが適切でしょうか)を持って接してこれたのか。
自身に問いかけていますが、怠惰故、今一つな気がします。
春の温もりを待ち、のどかな心を種として、これからを過ごしたいと思いました。