皆さまご無沙汰しております。
ここ最近急激に冷えてきました。
秋の紅葉が刹那的に進み木枯らしによる冬が一挙に押し寄せてきた感覚です。
秋の季節は寂しさや侘しさ、そして悲しみを彷彿させると以前より綴ってまいりましたが、
冬は悲しみの向こうにある耐え難い厳しさを突き付けてくる季節だと思います。
そんな中、日々内省する中で、悲しみや厳しさに内包する苦しみや孤独のようなものを胸中に抱くことがあります。
その実存…本質は何だろうとめくるめく季節の中で、自身に問いかけてきましたが、内から答えを見いだせず苦悶する日々を送っていました(厳密には今もですが)。
そのため、違う視点を得るため、本を読み漁り、読み齧りを繰り返して、省察の果てに生まれたわだかまりと学の足しという建前のもと積読を消化していましたが、
とりわけ、惹かれて共鳴した本をご紹介いたします。
若松英輔 「悲しみの秘義」この本は著者の実体験と様々な人の書物や言葉を織り交ぜて、描かれた「悲しみ」についてのエッセイ集です。
「悲しみ」を通して、人生の意義や感情の本質を鋭く、優しく説いた良書もとい、美しい本です。
本の要約はあまりしたくないのですが、簡易的に述べると…
・生きるとは…人生とは何かを問うことではなく、人生からの問いに応えること
・人生には「悲しみ」を通じてしか開かない扉がある
・「悲しみ」は絶望に伴うものではなく、絶望のあるところには必ず希望が隠れている
上記の要約をテーマに切実に赤裸々に語られている文章でした。
短編になっているので読みやすいですが、言葉がとにかく重苦しいです。
自身の感想ですが
心を開くとは 他者と短絡的に迎合することではない。それはある種隷属的に媚びへつらう無礼と大して変わらない。
ただ、自身に「悲しみ」を問いかけ、寄り添い自らの非力を受け入れ、露呈し、変貌を切望すること。
ただ…ただこれに尽きると思います。
私の拙い文章では伝えきれないので、本文から引用いたします。
文字を記すことができないなら、呻きよ、言葉になれ、と願うだけでもかまわない。その想いは必ず、見えない言葉で刻まれた手紙となって、天へと駆け上がるからである。
『悲しみの秘儀』 若松英輔
今では、悲しみとは絶望に同伴するものではなく、それでもなお生きようとする勇気と希望の証しであるように感じる
『悲しみの秘儀』 若松英輔
著者の心の声は、私の内に残響として染みわたり、変化の兆しを生みました。
まるで季節の巡りのように、目に見えてるようで視覚情報だけでは、感じられない珠玉の宝です。
冬に変遷するこの世界でつつましく、ただ日々を大切にしたいと思う次第でした。
最後に「悲しみの秘義」にも引用されていた歌を蛇足かもしれませんが引いて幕引きとさせていただきます。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家